昭和41年01月31日 朝の御理解
(途中末尾切れ
私は時々、最近特に疑問を感じる事がある。それは、私の説くところの、私の皆さんに聞いてもらうところの、御理解そのものが、いつも同じ調子で同じような事柄を御理解し申し上げるから、皆さんに、新しい斬新なものとして入って行かなくなったのではないか。私説くところ、その事がマンネリになってるんじゃないかと、私自身がそうではないかというふうに、まぁ思う事があるんですね。
というのは、もうほんとにお互い、まぁ私の説くところ「とにかく限りなく美しくなりましょうや」ということなんですよね。もうほんとに限りなく美しゅうなろう。もうこれでよいということはないと。それは若い娘さんに限らず、その女性の方達がです、ほんとに皺が寄っても、まあだやっぱ美しいなりたい、という努力をなさるような、意味合いにおいてです、私共信心さして頂くものは、そういう一つの願い意欲というものがです、もう限りなく美しゅうなろうと。
そこには改まりが必然になってくるのであり、本気でその事を通して磨かしてもらおうという意欲が、出て来なければならんのです。ね。「美しゅうなれ、美しゅうなれ」と言ったって、化粧品もなしに、美しゅうなれる筈ありません。ね。この化粧品が合わんならまた別の化粧品に取り換えてでも、自分の肌に合った化粧品を選んで、そして、美しゅうなろうとこう言う。
こうそれを私は、まあ日々、こういう化粧品を、こういうふうに使ってと、その一つの手法、美しくならしてもらう方法というものを私が朝に晩に、皆さんに聞いて頂いておる。確かに私聞いて頂いておるとこう思うのです。ところがそのう、聞いて頂いておる皆さんが、美しゅうなられないからそれを感じるんです。ね。もうあがしこ私が「限りなく美しゅうなろうや」と言いよるとに、ね、もうほんとに汚い、汚い心の旺盛、美しゅうなろうという心よりも、汚い心の方が旺盛であるということ。
どうして汚い事の、いよいよ信じれないものから見たら、それが分かりませんでしょうけれども、信心さして頂いてほんとに、信心の、いよいよの私共願いとしなければ、ならない事はもう限りなく人、のこの美しさと。ね。人間本来の、神性と言うものを、いよいよ磨く限りもう磨かしてもろうて、それを発揮して行こうと。と言うのが信心なのですから、限りなく美しゅうならして頂こうやということに、もう尽きるのです。
どうでしょう皆さん、ここまでは美しなっとるけれども、これから先は美しゅうなろうと努めてないと言った様なものを感じられませんですか。それが、私の最近、時々疑問に思う元なんです。どうしてだろうかと私は思う。もう美しゅうなるということはこれでよいということはありません。限りなくなんです。その為には、自分の心の中の汚い物を、本気で取り除かせてもらうおかげを頂かなきゃならん。
昨日現場の方へ、皆さん、高芝さん、永瀬さんでしたかね。昨日、秋永先生の昨日終日こちらにみえておりました。それがまあ、他昨日は何人もの現場員の方達が、丁度御奉仕なりました。そして現在あのう、本館のなんか雨樋ですかね、雨樋の事についても段々出て来るんですけれども、それをもう一遍やり直さなきゃならないと言うのが、こんなに小さい鉄管ですかね、あの受樋です。それがいくつかしかないというわけですね。でこれだけ広い大きな屋根に、これがそのう、これではとてもはき切らん。
丁度ここの、ここでほらあの客座、客間の向こうにあるあれが普通のこんな、うけ樋ですもんね。ですから、あれもはき切らんから、あのあそこに漏るわけです。ちょっと雨が降ったら。客間のあの天井高くこう反っておるのは、その為なんです。いわゆるあの客間の建ったものくらいの屋根ですら、このぐらい、あのそのう、いわゆるあの位のが幾つか付いておるだけだとこういうこと。それをするにはもう大変な手が要るそうです。またやり直す為には。
これは昨日秋永先生がしみじみ言うておりました。「もう親先生、もうよう神様が井上組と言うて、指定なさった筈ということが、ようやくいよいよ分かって参りました」ちゅうてから、しても井上組でなからななきゃ「おう」と答えてやっちゃくれんち。ほんないつもいつも何事でも。もうほんとに井上組じゃなかなきゃ出来るこっちゃありませんでしたち言うて、昨日は、申しておりましたが、あのうそうなんですね。
だからと言うてんなら、その設計士の古谷さんに、それを申しますとですね。設計上ではあれでいいのだと言われるそうです。だから設計上じゃなかろうばってん、実際問題としてはどうなるのかと、私は申しましたことですけれどもですね。なるほど設計上ではあれでいいかもしれない。私は今日の御理解を、皆さんに聞いてもらうという事もですね、私はただ設計上の事だけを、皆さんに申しておるんでないだろうかと、言う様な気がするんです。ね。
神様にこうすりゃこうおかげ頂けるんだ。こうすりゃ美しゅうなれるんだ。美しゅうなる為には、こう言う様な手法があるんだということをです。なら例えばんなら、高芝さんあたりが、シャンソンの化粧品をなさっておられますから、ね、化粧品、美容師の方がみえて、ね、そしてマネキンの方がみえてから、ちょっとその、しておられるところをちょっと見たら、実際に奇麗になるんだそうです。
ところがその、まあ普通のものがしても、そう奇麗になれないというところにです、何かそこに体質の問題とか、又は手法の問題とか、化粧品の問題とか問題が色々そこにございましょうけれどもです。学理的にはそれでよい事になっている。神様はこうと仰るけれども、問題は私共それを受けた場合です。実際問題としては、限りなく美しゅうなるということは、そんなに実を言うたら難しい事だということなんです。ね。
その原因はやはり私どもの汚い欲望なんですよ。もうほんとにだからね、もう努めにも努めて美しゅうならせて頂こうということにです、焦点を置いとかなければ、やり損ないますです。そしてです、美しゅうなる事が鏡を見せて頂いて、こんなにも自分が楽しいだけではなくて、人にも良い感じを与える事が出来るんだと、いう体験をいやが上にも、積ませて頂かなければです、限りなく美しゅうならして頂く、楽しみというものが出来ないのじゃないのか。ね。
あの御本部のマンモス会堂と言われた、あの会堂もそうなんですよ。設計であんな事があっちゃならない筈なんだけれど、もうあのう入り口のところがズウッとひびがいっとるでしょうが。あれだけ素晴らしい基礎が出来ておったにも係らず。そして二階があの柱一本無い長い二階が出来ておるでしょうが。あれがですね、落ちるかもしれんちゅうわけなんです。ですから人数沢山上げない、制限しとる。ちょっとおかしな話でしょうが。もうそれこそ近代建築の粋をこなして建て上げた。ね。
いわゆるその学位上の上から出てきた、答え通りの事をやった。けれども実際問題としては、あそこに一杯上がったら危険だとこう言う訳なんです。今少ししか入れないでしょうがあそこに。あれが落ちでもしたら大変ですもんね。言うにです、実際その神様が教えて下さる事とです、私どもがその実際人間が、そのおかげを受けて行くという事などの実際問題ということについてはです、やはり一つのそこの問題がある。
そこの問題を私どもが救援して、その行かなければいけんのじゃないのかと、いうことを今朝から感じるのですね。皆さんどうでしょうか。「ほんなこと先生、なんぼ朝から美しゅうなることばかり言うておる」と思ておるけれども、実際はやっておる事しておる事が美しい事やってましょうか。気汚い事ばっかりやっておるじゃないか。汚かってやり方が。ね。そういうことで「私は信心しておる者」と言えるか。とまあ追求するとそういう事になるのですよ。
そこに私は、その美しゅうなるということの、まぁ教えて頂くという事と、まぁいうならば、設計上の、古谷さんで言えばミスじゃない。設計の学問の上から言うたら、そのそれで丁度いいんだ。しかしどんなに考えても、これで良かろう筈はないじゃないか。これだけ、大きな屋根が付いておるのに、これが何本ぐらいあって出来る筈がないじゃないか。実際問題としては実際そうなんです。
だから結局、井上組に大変なまあ無理を言わんならんそうです、この事に限ってまた。言うて又そこを大きくやり直すとこういうわけなんです。だから、例えばほんなら、無理を言うてでもです、私そこんところをですね、無理をしてでも私共がそこんところを、おかげ頂いて行けれる道を、講じなければいけんのじゃないか。強引にでも一つ美しゅうならして頂く、本気でのその事がなされなければいけん。
でないとこれは、いつまで経っても「限りなく美しゅうならせて頂こうや」と言う事についての、御教えを頂いてのです、始まらん。これ以上になってこない。そして、現実の問題としては、なるほど雨が降るたんびに、こうやってこしてから難儀をしておるというような事になってるのじゃなかろうか。まあ例えて申しますなら、先日26日の土居の共励会、いつもに似合わず非常に活気のある、共励会だったそうです。
正月、今年始めての共励会の事でもございましたから、まあ打ち込みがちごとったんでしょう。久富組の方でした。土居の。それに終始、あちらの主人のミノルさんも出席して、もうほんとに真剣な、その信心のまあ議論と、言った様なものを尋ねられたそうです。それを久保山先生始めの皆さんが、色々説明をされた。特にその文男さんがずうっと自分がおかげ受けて来た事を、もうそりゃもう、それはもう周囲のものの方がおかげを頂いたと申しますが、そのお話をさして頂いたそうです。
もうそれは一つ一つ、文男さんそれを合点して聞いていかれた。もうその都度都度にですね、もう御神前でお祓いしておる、もう御神前でその都度都度においさみがあったす。ね。ほんと神様がこの事を喜んでおって下さるんだ。こういう真剣な求め方を神様が喜んで下さっておるんだ。こういう、その文雄さんのその話すような事を、神様が勢い込んで下さるんだということを感じるわけなのですよ。ね。
だからそんなに喜んで下さるということが分かっておるけれども、それを実行するということができないと言える。例えて実例を言う。夕べ御祈念が済んでからでした。豊美がお届けをするんです。今日あの、堤清さんが現場員でおかげを頂いた。ほいで終わって帰られるから、丁度善導寺にお参りさしてもらうので、あちらの車に便乗さしてもらって行ったんだそうです。もうほんとにお父さんが、清さん清さんと言いなさるから、もう清さんの信心は素晴らしいと言うわけなんです。
なしや、ち言うた。もうほんとにおかげを受ける人、神様の期待のある人違う。どういう所がそげん違う。それこそその、必ず皆さん現場員の方が帰ったら、御神酒を一献差し上げるんです。そしてその、愛子二番目の娘がそれこそサービス係におかげを頂いておる。皆さんに御神酒を勧めたんだそうです。ところがその清さんが上がられない。大体いける口でありますけれども頂かれないから、「そりゃあ一杯位いいでしょうもん」ち言うてから、ちょっとその、煎じ差し上げた。ね。
ところがその、豊美が自動車の中で聞かせて頂いた事はです。「最近私はその、御神酒を断たして頂いておる。」ということであった。「けれども、人から強引に勧められた時だけは、もう神様が強引に頂けと仰っておる時と思うて、頂く事にしております。」と言うわけなんです。ところが、それこそ昨日は、強引に勧められたもんだから、一杯、猪口一杯頂いたわけなんです。まぁそれまでは良かったんです。「ところが、もう一杯ぐらいよかろう」と思て自分で注いで飲んでしまわれた。
そしたら体がですね、痺れてしもて、日頃痛まない胃が痛んで、「もう私はほんとに恐れ入ってしもうた。」ち、「もう神様、私位な者の修行でも、受け取っておって下さっておるんだ」ということを思たら、ほんとにもうまぁビックリしたという意味の事をこっから善導寺に行く道々、話されたと言うのです。ね。これは皆さんでも体験があるでしょうけどもですね。
皆様が神さんに、神様にです、約束してですね、修行なさって、それを止めた時には、お気付けの一つでも頂けんようになった時には、もうそれはダメなんです。「もう、こやつにはいくら言うて聞かしたっちゃ同しこつ」ちゅうごたるふうです。ね。それをそれに、あぐらをかいて信心進めたっちゃつまらんです。そのくらいにやはり、神様は、この神様は生きてござる神様です。ね。
ですから、そういう例えて申しますなら、そういう働きを身近に頂きながらです、現実の問題としては、いうならそういう間違いのない神様が言うて下さる教えて下さる事を、私どもが左右にしておる。右左にしておりゃせんかということ。だから美しゅうなれんのだということなんです。実際問題において、実例を言うと今の土居の話と言い、清さんのそのお話と言いです。ね。
そういう間違いのない神様であるから、神様の教えて下さるこの間違いのない御理解を本気で、私どもがその美しゅうならしてもらうその手法です、ね、に取り組まして頂く事によって、限りなく美しゅうならして頂く。ほんとにあの人が見る見る美しゅうなっていかっしゃるというとが分かる。朝早い時からご理解頂きござる。本当に見る見る、美しゅうなって行きなさるというものがです、私がこっから皆さんの上に感じられる時、私の説かして頂くところにです、私の疑問が解消するんだというふうに思うのです。
(途中末尾切れ)